FC2ブログ

プロフィール

nonokomama

Author:nonokomama
上野国山上(こうずけのくにやまがみ)葛塚城堀之内に住んでます。


最新記事


最新コメント


月別アーカイブ


カテゴリ


『上野国志』にみる行仙上人・その3

朝お散歩前に突然のスコールです(°_°)
スコールが去って、ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます(^-^)/

IMG_8231 (2)

花が咲いてしまったり切り倒されたりして、アブラナの季節が去ろうとしています。
ひめちゃんも獅子丸も、道草に関心が行ってます。

IMG_8233 (2)

名前は分かりませんけど、この草はみんな食べます。

赤城山には雲が沸き立ってます。

IMG_8224 (3)

堀之内の北出口にあるポプラは、若葉が元気に繁ってます(*^_^*)





本日の確認部分です。

釈書曰、釈行仙、従静道法師学密教、旁修念仏三昧、不必念號、専凝相勘、居上野之山上、性不荘飾


まず「釈書」についです(^-^)/
釈書とは、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』のことです。
元亨は、鎌倉時代の年号です。
元亨釈書は、
鎌倉時代後期の仏教書。30巻。目録1巻。虎関師錬(こかんしれん)著。元亨2年(1322)成立。仏教渡来から700年間の高僧400余名の伝記と史実を漢文体で記したもの。

仏教渡来から700年間の高僧400余名の1人に、行仙上人は入っているのです(((o(*゚▽゚*)o)))
すごいことです(((o(*゚▽゚*)o)))
そんな人が、上野国山上にいたのです(* ´ ▽ ` *)

国立国会図書館のデジタルコレクション『元亨釈書』で探してみると、巻11に行仙法師とあります。
前後には、仁和寺とか高野山とかの高僧がいます。
都の高僧と方を並べるほどの高僧が、上野国山上にいたのです(((o(*゚▽゚*)o)))



『沙石集』(新編日本古典文学全集52 小学館2003)の現代語訳を参考にしながら、感じを眺めての大意です。

元亨釈書に書いてあります。
行仙法師は静道法師の弟子になり密教を学んだが、後に熱心な念仏行者となった。
普通の念仏行者のように、口で念仏は唱えなかった。もっぱら心に阿弥陀仏を思い描く事を宗とした。上野国山上に住んでいて、何事にも執着がないようだった。




「静法師」のは、デジタルコレクションではのように見えます。
静遍が間違って静通になり、更に静道になったのではと思われます。

修念仏三昧のの字は、デジタルコレクションではです。
『上野国志』刊行(活字化)途中でのまちがいでしょう。


(つづく)
スポンサーサイト



『上野国志』にみる行仙上人・その2

寒い寒い朝でした。
でも、堀之内の出口にあるポプラの若葉は展開しています。

IMG_8116 (2)

ひめちゃんと獅子丸は、東の牧場の方を歩いてきました。
おはよう、ヤギさん(*^_^*)

IMG_8131 (2)

ひめちゃんたちは、上のタケイ沼に足を延ばします。
水位がずいぶんと下がってます。

IMG_8146 (2)

カモさんたちは、岸で日向ぼっこです。

IMG_8147 (2)





『上野国志』 勢多郡山神村

舊山上に作る、足利大夫成行が孫、家綱が子五郎高綱始て山上と號し 、子孫相続してこゝに住す、末に記す
東鏡に曰、足利又太郎忠綱、潜上野国山上郷龍奥、招郎従桐生六郎許、数日蟄居、遂随桐生之諫、経山陰道赴西海、其遺跡今無所考、
釈書曰、釈行仙、従静道法師学密教、旁修念仏三昧、不必念號、専凝相勘、居上野之山上、性不荘飾、或人請唱導、會薪山中、便腰鈯斧赴檀家、人貴其樸素、凡嚫物不取、又不辭、只随處恣人受用、弘安元年秋受徴恙、端座如入定而化、時慶雲挂庵竹、宛如曝紫衣、又奇楽異香、充満天外、闍眦後得舎利、其灰色紫而香、仙先年預書臨終月日、潜置筺底、其徒滅後勘行李、得其書、相顧益戀遺徳 、其舊跡今不詳




本日は、この前半部分を検討します(^-^)/


舊山上に作る、足利大夫成行が孫、家綱が子五郎高綱始て山上と號し 、子孫相続してこゝに住す、末に記す

安永年間の「やまかみむら」は山神村と表記していたのですね。
山上氏が住んだことが書かれています。
「末に記す」とあるのは、後で故城のところに、山上故城があり山上氏の事跡も述べられているからです。



東鏡に曰、足利又太郎忠綱、潜上野国山上郷龍奥、招郎従桐生六郎許、数日蟄居、遂随桐生之諫、経山陰道赴西海、其遺跡今無所考、

東鏡(あずまかがみ) は「吾妻鏡」です。

吾妻鏡の本文は、
足利又太郎忠綱、潜上野国山上郷龍奥、招郎従桐生六郎許、数日蟄居、遂随桐生之諫、経山陰道赴西海、
(野木宮合戦で志田義広に味方して敗れた足利又太郎忠綱は、上野国山上の龍奥に潜んで、郎従の桐生六郎を手元に呼び寄せて、その諫めに随って 、山陰道を通って西海に赴いた。)



よく言われている説です(^-^)/
「山上郷龍奥」(やまかみごうたつおく)とは、葛塚城の事だとも言われます。
まだ山上城は築城されていない時代で、山上氏は葛塚城に住んでいたのです。
平地で潜むような所はない場所です。

ひめちゃんたちは、その葛塚城堀之内に住んでいるのです(^-^)/
それに、山上氏が受け入れるかな?
その後、桐生六郎は主人・足利俊綱の首を持って鎌倉に行くのです。


「其遺跡今無所考」は、毛呂権蔵のコメントです。
山上郷龍奥は、今はどこだかわからない。
毛呂権蔵の時代はもう葛塚城 なんて、みんな忘れていたのです。


でも、毛呂権蔵は上野国山上の行仙上人を忘れていませんでした(*^_^*)
次回は、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』からの引用ですけど、毛呂権蔵が記した行仙上人について確認です(^-^)/

『上野国志』にみる行仙上人・その1

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出て、岩神沼に到着です。

IMG_8035 (2)

沼は静かで、誰もいませんでした。

沼の上の岩神様、高縄の摩崖仏の裏を通って帰ります。
ひめちゃんが、見上げています。

IMG_8041 (3)

ひめちゃんの視線の先には、桜とカラスです。

IMG_8042 (2)




わが故郷・上野国世良田村の毛呂権蔵は、江戸末期の安政年間(1854~1860)に、上野国を実際に歩いて記事を残しました。
勢多郡山上(山神)村にも、やって来ました。
そして、行仙上人についても、記事を残しています(*^_^*)

上野国志 勢多郡山神村

舊山上に作る、足利大夫成行が孫、家綱が子五郎高綱始て山上と號し 、子孫相続してこゝに住す、末に記す

東鏡に曰、足利又太郎忠綱、潜上野国山上郷龍奥、招郎従桐生六郎許、数日蟄居、遂随桐生之諫、経山陰道赴西海、其遺跡今無所考、

釈書曰、釈行仙、従静道法師学密教、旁修念仏三昧、不必念號、専凝相勘、居上野之山上、性不荘飾、或人請唱導、會薪山中、便腰鈯斧赴檀家、人貴其樸素、凡嚫物不取、又不辭、只随處恣人受用、弘安元年秋受徴恙、端座如入定而化、時慶雲挂庵前竹、宛如曝紫衣、又奇楽異香、充満天外、闍眦後得舎利、其灰色紫而香、仙先年預書臨終月日、潜置筺底、其徒滅後勘行李、得其書、相顧益戀遺徳 、其舊跡今不詳



勢多郡山神村の記事には、行仙上人の事は『元亨釈書』からの引用ですけど、多くの文字数を割いています(^-^)/
『上野国志』の山上(山神)村の記述も確認しておきましょう。

(つづく)

念仏往生伝の思想史的考察・その3

今朝、ひめちゃんと獅子丸は、山上城周辺をお散歩してきました。
空堀の外の農道です。

IMG_7938 (3)

紫ナバナが満開です。

三の丸の前を通って、帰りました。

IMG_7951 (2)

多くの人は、ここから入って少し歩いて満足して帰ってしまいます。
本丸は、もっともっと北です。





『念仏往生伝』 の思想史的考察、続けます(^-^)/


第48話・小松新左衛門尉国頼

実はこの人物は、小松[見せ消ち、「柴」ト傍書]新左衛門尉国頼と表記されています。
小松と小柴は、単なる書き間違いとは、考えられません。
かなり詳しく、その往生を記し、更に

又没後七日々々夜間。必有音楽。就中行仙当四七日之忌辰。於窪井本房聞之。凡隔本拠十四五里。是仏不思議力歟

小松新左衛門尉国頼亡くなって28日目に、行仙上人は窪井の本坊で、音楽を聞いたのです(*^_^*)
名字を間違えるはずはありません。


小松では都合が悪いことがあったのかもしれません。

小松が名字の地だとすると、山上から14、5里の所に、埼玉県羽生市小松がありましたo(^▽^)o

小松神社は、小松大明神・平重盛を祀ってます。

IMG_1142 (2)

小松大明神の社です。

IMG_1170 (3)

御朱印も、平家の紋所・アゲハチョウですo(^▽^)o

IMG_6703 (2)



行仙上人は、平頼盛の孫、つまり小松大明神・平重盛の異母弟の孫という事になります、
平家つながりの何かがあったかな?
行仙上人と深い係わりがあったような人物です。

また、ここ記述から、行仙上人が(上野国山上)窪井に住んでいた事が知れる、大事な章です。


行西小松新左衛門尉国頼は、瑞相が現れないと嘆いた後、昏睡状態になったのでしょう。
夢の中で、とても重要な人物に逢いました。
「汝は大罪がある。念仏して懺悔するべきだ。」と善導(ぜんどう)に告げられました。

行西は善導に申しました。
「私にはお告げのように大罪があります。ただし長年念仏を唱えてきました。もし懺悔しなければ、往生はかなわないのでしょうか?」

善導は言います。
「五逆罪人でさえ、十念によって来迎に預かれる。
汝は多年の念仏者であるから、往生は疑いなしである。
今私が来たわけは、汝が大罪を恐れて、いささかそこに関わる心がある、それを治さんが為である。」


まるで悪人正機説のようです。




第49話・摂津国井戸庄小野左衛門親光

「小野左衛門親光は、天性の悪人で、殺生を業としていて、後世ということを知りませんでした。」
つまり、武士で鷹狩りが好きで、仏教に関心がなかったということでしょう。

ウィキペディアによれば、

悪人正機とは、浄土真宗の教義の中で重要な意味をもつ師僧で、「悪人こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である。
阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると自覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済対象であることを知り得るという意味である。



親光はその後46歳の6月13日、重病に陥りました。
そして、翌14日には昏睡状態になりました。
冥界に落ちたような夢の世界で、もがき苦しみ、まさに無間地獄に落ちようとした時、祖父の墓所堂の寺僧が念仏を勧めたことを思い出したのです。

たぶん蘇生して、念仏三昧の日々を送り、やがて念仏往生して行くのでしょう。


この話も、悪人正機説を彷彿させます。


悪人正機説は、浄土真宗の開祖親鸞以前に、法然も語っていると言います。
したがって、行仙上人の思想の中にも、根を下ろし展開していることでしょう。




そうすると、散逸して伝わらない念仏往生伝には、末法を生きる凡夫の衆生の物語が展開していたかも知れません。



念仏往生伝の考察は、とりあえずこれにて一件落着とさせて頂きます(^-^)/
まだまだ不明箇所もいっぱいです。
新発見があれば、又の機会に♪(/・ω・)/ ♪

行仙上人、窪井の本坊にはもう少しこだわっていこうと思います。
よろしくお付き合い下さいませ(^-^)/

念仏往生伝の思想史的考察・その2

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出て、岩神沼に到着です。
獅子くんは、道草でアブラナをいっぱい食べてきて、ご機嫌です(*^_^*)

IMG_7521 (2)

今朝は、住んでいる黒いカモさんがいるだけでした。
獅子くんの後ろ、沼のむこうに見える桜は、高縄の摩崖仏の桜です。
最近は参道が塞がっていて、ひめちゃん達は寄れません。
ちょっぴり寂しい、高縄の摩崖仏・阿弥陀三尊です(´・_・`)





念仏往生伝の思想史的考察 続けます(^-^)/


第35話・信濃国小田切四郎滋野遠平

彼は亡くなった後、或人の夢に現れ、残された後家さんに一通の手紙を送ったのです。

そして、次のように書かれていました。
「私は九品(くほん)には上ノ上があることを知らなかった。何と悲しい事か。」


衝撃の結末でした((((;゚Д゚)))))))

生涯にわたって5万回も念仏を唱えて、その結果脳卒中に倒れる。
そして苦しみながらの、極楽往生のお迎えがたった4人でした。゚(゚´Д`゚)゚。
一番上の極楽に行くには、紫雲に乗って大勢の仏・菩薩・飛天がお迎えにやってくるのです。

彼は出家をのぞんだけれども、仕事の都合で出家を果たせなかった。
出家の意思があったけれど、諏訪大社の社殿の造営の事があって、出家できなかったのです。
これが彼が九品の一番上の極楽に行けない伏線として、描かれています((((;゚Д゚)))))))
九品往生(くほんおうじょう)では、上の上の極楽に行くためには、出家する必要があるのです。


『鎌倉仏教』(佐藤弘夫 ちくま学芸文庫2014)に、

いまや念仏は愚者救済の方便でも低俗な行でもなかった。弥陀の与えてくれた唯一最高の極楽行きのパスポートであった。専修念仏による絶対の救済を確信した法然は、もはや比叡に留まる必要はなかった。いまや彼がなすべきことは学問や思索ではなく、この確信を実践に移す事であった。

「弥陀の与えてくれた唯一最高の極楽行きのパスポート」を実践した、小田切四郎滋野遠平が後悔してるなんて(´・_・`)

先の本には、旧仏教との対立と和解の過程で、「法然の教えは修正されいった」ともあります。

行仙さんは、当然旧仏教との対立と和解の過程修正された法然の教えを、信じていますよね。




第45話・禅勝房

この章は、冒頭の部分に欠落があります。
でも、「彼禅勝房自云。」から、主人公の名前が禅勝房であることが分かります(*^_^*)

そして、もう一つ、とても大事なことが分かります。
「従高野山。上野国山上。下向上人二人。一人名専阿弥陀仏。一人名誓阿弥陀仏。親拝見彼往生。而来語之。」から、高野山から、専阿弥陀仏と誓阿弥陀仏という二人が、上野国山上に下向してきたのです。
そして、彼らは、自分たちが見てきた禅勝房の往生を語ったのです((((;゚Д゚)))))))
ということは、彼らは遠江国禅勝坊のところに寄ってきたのでしょう。


禅勝房は法然の直弟子と云うことで、『法然上人行状絵図』に、伝記がありますo(^▽^)o

彼は遠江国の蓮華寺で天台宗を学んだけれども、熊谷入道(蓮生)の紹介で京都に上り、吉水の法然を訪ねます。

「知識もなく罪深い者でも、極楽に往生することが出来る教えがあると聞きました、それを承りたい。」と申し上げた。上人は次のようにおっしゃった。
「極楽浄土の主でおられる阿弥陀仏こそ、何事もわきまえない罪深い人たちであって、諸々の仏・菩薩にも捨てられてしまい、十方にある浄土にも門を閉ざされている人たちを、たやすく助け救おうと願を立てて、あらゆる世界の一切の人びとを極楽から迎えに来られる仏であります。この浄土の教えを聞きたいと、尊くもお考えになられたことよ。心を落ち着かせて十分にお聞きなされ。中国から日本の国に伝わってきている一切経という佛教経典の叢書はすべて五千余巻あります。其の中で『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』を浄土の三部経と名付けて、極楽往生に関することを解き明かしています。その昔、法蔵比丘と名乗っていた出家者が、四十八願を起こし、極楽浄土を建てて、一切の人びとを分け隔てなく往生させるために、自分が修行して仏(阿弥陀仏)になった時の名を称える人びとを極楽に迎え入れて、仏になして下さる、四十八願の中の第十八願がこれであります」と語り、阿弥陀仏の本願が真実であるわけ、また念仏を称えて往生出来る旨を詳しくお授けになった。
(『現代語訳法然上人行状絵図』 浄土宗出版H25)


前掲書に、「二十九歳からひたすら念仏を称えるほかの修行はしなかった」ともあります。

また、帰郷後は、大工をしながら生計を立てていたもあります。
そして、隆寛律師が嘉禄の法難(1227)の陸奥に流罪で行く途中に、再会したことで、人びとに念仏を勧める事になったのです。



行仙上人は禅勝坊の弟子とする説もあります。(古典日本文学全集15筑摩書房昭和36「一言芳談」の註)

京都で生まれ育ったであろう行仙上人は、関東に下向するときに、遠江国の禅勝坊の所によってしばらく滞在していた可能性もあります。
平頼盛の孫という出自の行仙上人ですけど、人を出自だけで判断したりしてなかったようです。
念仏行者としての資質で評価していたのです。


そうすると、東海道を下ってきたことになります。
たぶん鎌倉にも寄った事でしょう。

鎌倉街道を上野に、たぶん世良田の南(上武大橋の付近)で利根川を渡ったかな?
世良田の長楽寺(当時は臨済宗の寺)に寄ってから、山上を目指したかも知れません。
行仙さんは、山上から世良田によく行ってます。
そうだとすると納得です。
山上は、世良田からほぼまっすぐ北にある、赤城山の麓です。


だから、高野山から二人の上人が上野国山上(こうずけのくにやまがみ)にやって来て、彼らが実際に見た禅勝房の往生について語ったのは、行仙上人にはとても感慨深いものだったのです(*^_^*)

高野山からやって来た上人とは、高野聖(こうやひじり)のことでしょう。
高野聖とは、ウィキペディアによると、

高野聖は、中世に高野山を本拠とした遊行者。日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金活動のため、勧化、唱導、納骨などを行った僧侶。ただしその教義は真言宗より浄土宗に近く、念仏を中心としたものだった。


上野国山上に、高野聖がやってくる場所があったのです(((o(*゚▽゚*)o)))
それは行仙房の近くでしょう。
もしかしたら善昌寺のあたりなんて最高です。
行仙上人が場所を提供して、禅勝上人にちなんで、そこを禅勝坊なんて呼んだら素敵(((o(*゚▽゚*)o)))
まさか((((;゚Д゚)))))))

禅勝と善昌、ともに「ぜんしょう」??
まさか、そんなことは?



行仙房があったかもしれない本日の(桐生市新里町)雷電山です。

IMG_7582 (2)

東の麓にある、雷電山の笠塔婆です。
桜が咲いていますo(^▽^)o

IMG_7584 (2)

奥には阿弥陀三尊が刻まれています。

IMG_7594 (2)

三尊ともお顔がありません・゚・(つД`)・゚・

IMG_7593 (3)

極楽浄土から人びとを迎えに来るという、阿弥陀如来のお顔を削り取ったのは、いったいどんな人でしょう(*`へ´*)

 | ホーム |  次のページ»»