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Author:nonokomama
上野国山上(こうずけのくにやまがみ)葛塚城堀之内に住んでます。


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新田より小俣へ加勢の事・その2

夕方、ひめちゃんは、都合で一人散歩になりました。
そうだ、ケンくんちに行こう(*^_^*)
ケンくんいるかな?
あ、いました。
ちょっと絡んで、ありがとう、バイバイp(*^-^*)q




新田より小俣へ加勢の事、付けたり、小俣より小田原へ早打ち、義勝帰国の事 続きです。

其の口上に、「この度不慮に大事を引き請けし所、敵即時に敗北せしむる事、一旗の大勤以て宜しきなり。殊に城主御留守といえ、家の面目世に聞こえるという。国重その類家として、大慶これに過ぎず」と思し召しける旨、仰せ越されける。一旗謹んで承り、誠に上意有り難き旨、早速御返答仕まつり、使者は新田へ帰りけり。去れば其日、早旦に小俣より小田原へ早打ちを以て参着する所、藤沢の辺りにて、義勝公に行き会いたれば、国城の騒動の由言上致しければ、大きに義勝公驚き給い、馬を早めて二十三日、小俣に着城仕り給うなり。




あらすじです。

由良国重の書状には、「思いがけず敵の来襲に遭遇したけれど、即座に敵を打ち破ったことは、まことに喜ばしいことである。
殊に城主が留守とはいえ、家中の面目躍如である。国重にとっても、大変うれしいことだ。」
小俣家中は、謹んで受け取り、早速返答しましたので、使者は新田へ帰りました。
また、その日(天正11年4月21日)、小俣から小田原に使者を早馬で送りました。
ところがなんと、その使者は藤沢付近で、義勝公にあったのです((((;゚Д゚)))))))
国元での出来事を言うと、
義勝公は驚いて馬を早めて23日には、小俣城にお帰りになりました。




この小俣合戦で討ち死にした膳備中守の居城は、膳城(旧勢多郡粕川村)でした。

一昨日の写真です。
桜は満開です(((o(*゚▽゚*)o)))

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本丸址にある説明板です。

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「膳城は、天正8年(1580)武田勝頼の素肌攻めのあと、廃城になったと伝えられる」とあります。
『桐生老談記』 の今は、天正11年(1583)4月です。
天正11年、膳城はもうすでに廃城になっているのです(。Д゚; 三 ;゚Д゚)


( 新田より小俣へ加勢の事、付けたり、小俣より小田原へ早打ち、義勝帰国の事   終 )
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新田より小俣へ加勢の事 ・ その1

暖かい朝でした。
ひめちゃんと獅子丸は、堀之内の西を歩いてきました。
堀之内に戻るとき、獅子丸の足下には、大げさに言えば、椿の花の海がありました(*^_^*)

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ま、ちょっとロマンチックすぎる表現かな?

堀之内から、諏訪神社方面を望みます。

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葛塚の春景色ですo(^▽^)o



『桐生老談記』 新しい章です。
タイトルには長すぎる題名なので、タイトルは省略形になってます(^-^)/

新田より小俣へ加勢の事、付けたり、小俣より小田原へ早打ち、義勝帰国の事

去る程に、由良成重公、病気以ての外なれば、萩野養意を召して御養生の内談最中なる所、小俣合戦の由、午中刻(午後1時)に告げ来り。上下大いに驚き、則、加勢の為、増田伊勢守、堀口彦五郎を差し添え、都合百七十騎、小俣城に隨わされける。未の上刻より雨風しきりにして止まらず。これにより鹿の裏の川原に日を暮らす。
小俣より来る早打ち、小俣勝利の由、聞かしかば、加勢は新田へ帰陣す。其の日巳刻(午前10時)に新田より小林虎之助を以て使者に立てらる。


あらすじです。

由良成重は病気で、その療養を、萩野養意を呼んで相談していました。
そこへ、午中刻(正午頃)に、小俣合戦の報がもたらされました。
由良家中は驚いて、すぐに加勢のために、増田伊勢守を大将に堀口彦五郎を補佐に付けて、170騎で小俣城に派遣しました。
未の上刻(午後1時から午後1時40分)に雨風しきり降り出し、いっこうにやみません。
渡良瀬川は渡ることができないで、鹿の裏の川原で日が暮れました。
そのうち小俣から、小俣勝利の報がもたらされたのです。
それで、加勢の軍は、新田へ引き上げました。
そして、巳刻(午前10時)に新田から小俣に、小林虎之助を使者にして送りました。



時間の記述がはっきりしません。
この部分は2日間にわたる出来事です。
お昼頃、合戦の報がもたらされて、1時間かそこらで170騎で出陣はかなり難しいと思われます。

新田(金山城)から、渡良瀬川をどこから渡って小俣に行くか?
やはり松原の渡し、現在の松原橋付近でしょう。
鹿の裏の川原がどこかわかりませんけど、松原橋付近でしょう。
豪雨で増水して、渡れなかったのです。

松原の渡しは、新田(太田)側が松原、桐生側が三ツ堀という事です。
あれ、三ツ堀には小俣城攻撃から退却した萩田備後守も来ています。
鉢合わせしなかったのでしょうか、心配です(°_°)

寄せ手敗軍、膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水、越後勢水死の事 ・その 2

夕方、獅子丸は元気がありませんでした。
どうも変です。
動物病院の診療時間の終了前に電話しておいて、飛び込みました。
お尻に体温計を入れたことないの、獅子くん?
体温を測るのも大変でした(;゜0゜)
なんと39度もあります((((;゚Д゚)))))))
極太の注射と細い注射の2本してもらいました。
もちろん注射も誰よりも大変です(´・_・`)
でも、今夜はぐっすり眠れるね(^-^)/



寄せ手敗軍、膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水、越後勢水死の事

続きです。


備後守大いにあせり、馬に続けと下知なし、馬上歩行武者百騎ばかり逆巻く水に打入りて、よわきものは馬に取り付き、弓筈武者鐙しりにて取り付き越えければ、悪水岸に充満し、歩行武者、弱き武者、手負いの類い三十人ばかり、波間に沈み死にけり、備後守馬ばかり流して、ほうほう岸に上がり、女渕の城に引き取りけり。


あらすじというか、大意というか、非常にわかりにくい表現なので、だいたいのストーリーです(^-^)/

萩田備後守は、「我が馬に続け。」と指令したので、騎馬武者が百騎ほど、逆巻く渡良瀬川に乗り入れます。
弱い者は、馬に捕まったり、弓筈(ゆはず)に捕まったり、鐙に捕まったりして、渡良瀬川を渡ります。
弱い者や負傷者約30名が、波間に沈んで死にます。
備後守は馬だけ流して、ほうほうの体で岸に上がり、女渕の城に逃げ帰ります。




まるで、『平家物語』の橋合戦で、足利忠綱が先頭に立ち、宇治川の逆巻く流れを渡るシーンのようです。
ちょっと、迫力不足ですけど。
約3分の1が流されてしまったのですか?
足利忠綱率いる東国武者は一騎も流されませんでしたけど。
渡ったところ・三ツ堀は、現在の松原橋付近です。
松原橋を渡ると、桐生市広沢町、その南はもう太田市です。
萩田さん、歩いて帰ったんでしょうか?
かなりの距離ですよ。
それに、膳備中守の居城は、膳城です。
女渕城では、ありません(;゜0゜)


でも、桜の季節です。
桜の女渕城を歩いて来ました(*^_^*)

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萩田さんの記憶は何もないようですね。
城主として名前のあがっている、荒井図書允・沼田平八郎は由良方の武将ですね。


(寄せ手敗軍、膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水、越後勢水死の事  終 )

寄せ手敗軍、膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水、越後勢水死の事 ・その 1 

ひめちゃんは、すっかり元気になりました。
お薬も、缶詰に忍ばせれば、しっかり食べてくれます。
あと、2日分です(^-^)/
夕方は、小次郎パパと、諏訪神社の方へ行ってきました。
あちこちで、桜の花が咲き始めています(*^_^*)




『桐生老談記』 新しい章です。

寄せ手敗軍、膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水、越後勢水死の事

去る程に、萩田備後守搦め手の合戦に打ち負け、米沢山の腰に引きて味方を見るに、打ち死に手負い半死半生のやからもあり。かくて大手の大将も、笛吹坂流れ矢にあたりて失いける。惣じて大手搦め手八十人ばかり打たれ、かくて備後守、三ッ堀という所引き退き、河原に馬を立て見れば、渡良瀬川洪水にて、越すべきようはなかりける。


あらすじです。

萩田備後守は、搦め手の合戦に負けて、米沢山の腰(ふもとに近い所)に退却して、味方を見ると、打ち死にした者、負傷者、半死半生の人々もいたのでした。
そして、なんと大手の大将も、笛吹坂で流れ矢に当たって死んでしまったのです。
大手搦め手合わせて、80人ほどが打たれてしまい、備後守は三ッ堀というところまで退却しました。
馬上から河原を見ると、渡良瀬川は洪水で、越す方法はなさそうでした。




章の題名には、膳備中守とありますけど、本文中には出てきません
でも、大手の大将は、膳備中守でした。
『桐生老談記』では、膳備中守は笛吹山で流れ矢に当たって死んでしまったのです((((;゚Д゚)))))))

笛吹山ってどこだっけ?
それは、下の写真の山です(^-^)/

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お使いついでに、ちょっと足を延ばして行ってきました。
渡良瀬川を渡り、桐生川を渡り、でも1時間足らずです。
ここは、笛吹山恵性院不動寺(ふえふきざんえしょういんふどうじ)という真言宗のお寺です。
実は、鶏足寺に行く時に通ってます(^-^)/

もちろんすぐ近くの、三つ葉ツツジの自生地も確認してきました。

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ここの三つ葉ツツジは、おしべが5本です(*^_^*)

詳しくは近日中に、「黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ」(gooブログ)で報告します(^-^)/

小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事・その 4

今朝の赤城山は、すっかり春の顔をしていました。
ひめちゃんと獅子丸は、堀之内の西側を歩いて来ました。
道の右が堀之内です。

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朝ご飯の後、ひめちゃんは首の痛みを訴えて、動物病院に行ってきました。
鎮痛の注射をしてお薬をもらって来ました。
お薬が苦手な子もいますけど、ひめちゃんは、缶詰に忍ばせれば、きれいにたべてくれます(*^_^*)




小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事 続きです。

さて両軍の鯨波矢鉄砲は山にひびき猛火の煙老若男女おめきさけぶ、その声おびただし。かくて搦手の軍も同時に始めて、西北の谷より寄せ手の大勢楯をたたき、鯨波を作り押し上る。峯には矢鉄砲の筒先揃えて防ぐといえども、玉薬も及ばず種も尽きて、石岩をなげ大木を落し、半時ばかり防げども、軍勢つかれ既に危うく見えし所に、不思議や晴天なりしが、仏手山の峰より黒雲むらがり懸かり、大風天にひびき地になり渡り、石を飛ばし砂を吹きたて、震動雷電しきりに大雨車軸を流し、敵の進む先々に悪風吹き懸けければ、前後を失い流石の大勢、へきへきして覚えず谷に転び、敵も味方も戦い方を失い、八方に逃げ去り、戦は忽ちに破れけり。




あらすじです。
両軍とも鬨の声をあげてと矢と鉄砲の音は、山に響き渡り、猛火の煙も上がって、老若男女の叫び声はすさまじかった。
(大手だけでなく)搦手の軍勢も同時に戦い始めて、西北の谷から鬨の声を上げて押上がった。
小俣勢は必死で防いだが、鉄砲の弾も矢も尽きて、石や岩をなげたり大木を落としたりした。
一時間ばかり戦って、疲れたもうダメだと思ったとき、不思議な事に晴天だったのに黒雲が仏手山のほうから湧き上がった。
すさまじい雷雨となり、敵の進路に襲いかかった。



仏手山とはどこか?
地図では確かめられませんけど、この嵐を呼んだのは、仏手山鶏足寺だとかいいます。

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鶏足寺の法力によって、黒雲が寄せ手に大損害を与えるのです。

確かに夕立が来そうな時間に戦しています。
でも、天正11年(1583)4月20日の早旦に膳城を出発しているのです。
時間がかかりすぎです((((;゚Д゚)))))))


( 小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事  終 )

小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事・その 3

穏やかな暖かい朝でした。
ひめちゃんと獅子丸は、久しぶりに東の牧場の方に行きました。
ヤギさん、いるかな?

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おはよう、ヤギさん(*^_^*)
鏑木川を渡って、高台のシブヤ沼を回って帰りました(^-^)/




小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事 
続きです。

扨て、城中には軍勢手合わせをして、籾山、窪沢、阿部、別府、桑子、牛窪、小泉等は百騎ばかりを随えて、笛吹山中妻口、左右の敵を防ぎけり。扨て搦め手は石井、大川、石渡、神田、松本、片山、山元、或いは窪田等は五十騎ばかり、寄せ手の敵を待ちかけたり。かくて其の日の午の上刻(正午)ばかりに、追手の軍はじまりて、中妻口の小屋に火を掛け、責め太鼓を打ってときを造り、鉾先を揃えて攻め入りける。城の軍勢矢を揃えて破らせじと是を防ぐ。


あらすじです。

小俣勢の籾山、窪沢、阿部、別府、桑子、牛窪、小泉等は百騎ばかりを随えて、笛吹山中妻口(大手)で左右の敵を防ごうと待ち構えました。
搦め手は石井、大川、石渡、神田、松本、片山、山元、窪田などが五十騎ばかりで、敵がやってくるのを待ちました。
こうして、その日の午の上刻(正午)ごろに、追手(大手)の戦いが始まりました。
敵は中妻口の小屋に火を掛け、責め太鼓を打って鬨(とき)の声を上げて、攻め入ってきたのです。
小俣城の軍勢は、矢で防戦しました。





いよいよ、戦が始まりました。
でも、12時頃はじまるなんて、ちょっとゆっくりすぎませんか?
笛吹山とはどこでしょう?
いろいろ検索すると、鶏足寺の南の方に、「笛吹山恵性院」があります。
恵性院のあたりが、笛吹山のようです。
地図を検索すると、ここには、三つ葉ツツジの自生地があります。
三つ葉ツツジは、紫がかったピンクの花です。
む、そういえば今朝お散歩の帰りに、紫がかったピンクのツツジをどこかで見た気がする(^-^)/
写真を撮ろうかどうか一瞬迷ったけれど、やめたのでした(´・_・`)
そのうちに、恵性院と三つ葉ツツジの自生地に出掛けてみましょう(^-^)/

小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事・その 2

ひめちゃんの母親、七海ママはもうすぐ16歳になります。
父親の小次郎パパも、この夏14歳になります。
特にママは、朝ご飯のあとも、そこらまでのちい散歩に出たがります。

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朝のちい散歩は、パパが一緒に行くことが多いです(^-^)/



「小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事 」 
続きです。

城代なる尊空、膝立て直し、「口惜しのはかりごとかな。渋川数代の家を一戦にも及ばず、城を敵に渡すこと、主君の恥辱、家臣の外けん。なんぞ此の合戦は、さる永禄七年の夏謙信公佐野より帰り給う節、萩田が手先に向かって、当家の一旗狼藉の振る舞いなし。萩田が遺恨を晴らさん為、寄せ来たると覚えたり。いくさは小勢多勢にかかわらず、殊に主君の留守なれば、一人励み戦うべし。幸い当所氏神は五大尊明王諸魔王降伏の本尊なり。」敵退舞の法を修し勢巻くむね、鶏足寺に使者を立てければ、時に住僧浄幽法師神殿に向かって勝利の祈りをなす。



あらすじです。

城代の石井尊空は、膝を立て直して言いました。
「口惜しい事をいうな。
歴史ある渋川家が一戦も交えずに敵に城を明け渡したら、それこそ主君の恥、家臣も同様であろう。
そもそも今回の合戦の原因は、さる永禄7年の夏謙信公が佐野からお帰りになるとき、萩田の家来に狼藉をしたからと言うが、、当家の者は何も狼藉はしていない。
萩田は遺恨を晴らすために押し寄せるのだろう。
戦は、軍勢の多少に、関係ない。
今は殊に主君がお留守だから、一人一人がしっかり戦うべきだ。
幸い当所の氏神は五大尊明王諸魔王降伏の本尊である。」
そして、鶏足寺に敵退散の法をするように使者を出します。
住職の浄幽法師は、神殿で勝利を祈ります。





開城に傾きかけていたその場の雰囲気が一変します。
当家の者は狼藉をしていないのに、萩田はどんな遺恨があるのでしょう?
ただ、こんなに時間のゆとりはないでしょう。
膳城から小俣城まで、馬なら一時間たらずです。

小俣城南の鶏足寺には、3年前の春に行ってきました。

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鶏足寺の和尚さんが、常広寺の竜骨を見に来て、竜骨伝記を記録しておいてくれたのが、竜骨伝記の復元につながったのです。
常広寺の現住職もご一緒に数人で、ご挨拶にいきました(^-^)/

小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事・その 1

冷たい雨の一日になりそうだったので、今朝は早起きでお散歩です。
みんな、なんとか降り出す前にお散歩できました。
今夜は、みんなに久しぶりに湯たんぽが入りました(^-^)/

写真は、昨日七海ママが昼散歩に出掛ける時です。

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高齢のママは、もう余り視力が無いようです。
でも、末っ子のひめちゃん・獅子丸とのお散歩を楽しんでいますo(^▽^)o




『桐生老談記』
 新しい章です。

小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事

去る程に、此の事小俣に聞こえければ、城中大いに驚き、早鐘を撞いて軍兵を集めける。集まる人々は、石井尊空、同安芸守、同丹後守、籾山出雲守、大川土佐守、久保沢豊前守、和泉豊前守、桑子左近、渡り弥五郎、神田平六、松本喜太郎、窪田金八郎、片岡金五郎、山本雅楽之介を先として、宗徒人々十四人、上下百五十人なり。籾山出雲が曰く、「此の分の城にて殊に無勢と云う、籠城を致し大軍を引き請け、数代の家人を失なわんこと、これ軍師知略の少しき所なり。一向城を開き君の御帰国の後、新田、足利の勢をかり請け、城を取り返す事然るべし。」と申しける時に、




あらすじです。

膳の城から小俣を攻めてくるということが知らされて、小俣城中は大騒ぎになった。
早鐘を撞いて軍兵を集めた。
集まった人々は、石井尊空、同安芸守、同丹後守、籾山出雲守、大川土佐守、久保沢豊前守、和泉豊前守、桑子左近、渡り弥五郎、神田平六、松本喜太郎、窪田金八郎、片岡金五郎、山本雅楽之介の主だった家臣14人、上下合わせて150人であった。
籾山出雲が言った。
「今は折悪しく、戦える人がいない。籠城して大軍と戦い、譜代の家臣を失うとしたら、それは軍師の知略が乏しいという事だ。いったん開城し主君の帰国後に、新田・足利の軍勢の応援を受けて、城を取り返すのが良いでしょう。」といったところ、




膳城から敵が襲来の報に、籾山出雲守は、いったん城を明け渡そうと主張します。

膳城から小俣城まで、車だと1時間強かな?
馬でも、そのくらいかな?
わりと近いのです。

江戸末期、小俣城のすぐ南にある鶏足寺の和尚さんは、膳城のすぐ東の常広寺にやって来ました。
常広寺にある竜骨を見に来たのです。
そして、竜骨の由来を書いた竜骨伝記書き写したのです(*^_^*)
鶏足寺文書の中に、ちゃんと残しておいてくれたのです(*^_^*)

野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事・その 2

夕方、ひめちゃんは小次郎パパと、堀之内を西に出て諏訪神社の向こうの高台を廻ってきました。
百番供養塔のそばの早咲きの桜は、もう葉桜になり始めていました(;゜0゜)

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ひめちゃんもパパも、手前に生えた草に夢中です。
あたりまえと云えば当たり前、桜にも供養塔にも興味がありません。
この百番供養塔は誰が建てたものか、誰も知らないようです。




野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事  
続きです。


則ち萩田備後守私用ありて上州膳の城に来たり。この席に小俣の遺恨晴らすべき由を、膳城主備中守宗次に語り蹴れば、宗次血気の若者なれば、萩田備後守に勧めて曰く、幸いこの度は相模守小田原へ参上いたし、若侍はみな御共なれば、老若男女の類いばかりにて、悉く無勢なり。忽ちに取りかかり候べし。某も一方承まわらんと云いければ、備後おおいに喜び、手勢八十騎に膳の家人百三十騎、都合二百騎にて、頃は天正十一年四月二十日早旦に、膳の城を打ち立ち、小俣に押し寄せける。さて、笠懸野北の橋にて勢を合わせ、備中守は大手、備後守は搦手にこそ向かいたり。


あらすじです。
萩田備後守は、私用があって、上州膳の城に来ました。
備後守は小俣の遺恨を晴らしたいと、膳の城主・備中守宗次に語った。
宗次は、血気さかんな若者だったので、「今がチャンスです。渋川相模守は小田原に行っていて、残っているのは役に立たない老人や女子どもです。早速やってしまいましょう。私も助太刀します。」と、勧めました。
備後守はおおいに喜んで、手勢八十騎に膳の家人百三十騎、合計二百騎で、天正11年4月20日朝早くに、膳の城を出発して、小俣に向かった。
そして笠懸野の北の橋で軍勢を分けて、備中守は大手、備後守は搦手にそ向かいました。。



萩田備後守は、上杉の武将でした。
私用で、佐野から膳まで80騎も連れて行くなどという事は、考えられません((((;゚Д゚)))))))
小俣の遺恨は永禄7年(1564)、今は天正11年(1583)、20年も前の出来事です(;゜0゜)
小俣の遺恨の内容は語られていません。
それも家来同士の争いのようです。
主人が20年も恨み続けるって、いったい何があったのでしょう。
膳備中守宗次は、いとも簡単に「やっちゃいましょう。城主が小田原に行っていて留守だから。」なんて言ってます(;゜0゜)
戦国の領主としては、いかがなものでしょうか?

先代因幡守の時も、妹夫婦の仇討ちとして桐生氏と戦い敗れています。
先代膳因幡守が、諏訪の森に集結し馬煙を立てて出撃したのは、天文13年(1544)7月15日朝でした。

百番供養塔と桜のすぐ近くに諏訪神社があります。
諏訪の森がどこだかはっきりわかりませんけれど、まあこの近所と考えて良いでしょう(^-^)/

助太刀の膳備中守さんが大手、主役の萩田備後守が搦手とは、主客転倒です((((;゚Д゚)))))))



( 野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事   終 )

野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事・その 1

冷たい雨の一日でした(´・_・`)
不暗くなってから小やみになって、ひめちゃんは獅子丸とお散歩に出掛けました。
誰にも会いませんでした。
こんな日はみんなどうしているのでしょう?
時に寒くはないけれど、ちょっと濡れたので、今夜はみんなに湯たんぽが入りました(*^_^*)




『桐生老談記』新しい章です。

野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事

去る程に、その頃小俣の城主は足利式部大輔義国公より三十二代の末胤、渋川相模守義勝公と申しけるは、近年北条の旗下になり、武命に随う故、頃は天正十一年癸未(みずのとひつじ、1583年)四月六日、小田原へ出仕せられけるに、さる永禄七年(1564年)の夏、越後の上杉謙信関東に下向、佐野に入り給えば、桐生城主加勢の為に家老萩田備後守、桐生に遣わす時、大前村松田川という所にて、小俣の家人萩田が手の者に対して狼藉の振る舞い、萩田当座に遺恨をはらすべき所に、大事の加勢の門出なれば、後日に遺恨を達すべくむね、則ち小俣家人大沢伊八という者に断り捨て帰りけり。


あらすじです。

その頃の小俣の城主は足利式部大輔義国の32代の末裔、渋川相模守義勝であった。
近年北条の旗下になり、武命に随って、天正11年癸未(1583年)4月6日、小田原へ出仕した。
さる永禄7年(1564年)の夏、越後の上杉謙信関東に下向し、佐野に入って、桐生城主加勢の為に家老萩田備後守を桐生に遣わした。
その時大前村松田川という所で、小俣の家来が萩田の家来に対して乱暴な振る舞いがあった。
萩田はすぐに遺恨をはらすべき所だったが、、大事の加勢の門出であったので、「後日に遺恨をはらす」と、小俣の家来・大沢伊八という者に言い置いて帰った。


膳備中守が討ち死にする、小俣合戦の発端です。
小俣領主渋川相模守義勝は、天正11年(1583年)4月6日、小田原へ出仕しました。
その留守を狙って、攻撃が始まるのですけれど、地元の菱カルタと日付が違います。

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元亀3年(1572)です((((;゚Д゚)))))))
11年も違いますΣ( ̄。 ̄ノ)ノ

あの右手の山が、かつて小俣城があったところです。
今はゴルフ場になっていて入れません(´・_・`)

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ことの発端はさる永禄7年(1564年)の夏、約20年前の出来事です。

松嶋式部沼田行きの事、付けたり、久留川城静まる事

ひめちゃんは、夕方小次郎パパと西の方にお散歩に出ました。
今日は、小次郎パパの姿に、人の目が集まりました。

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小次郎パパは、初めて服を着てのお散歩でした。
背中の瘤が爆発する心配が無くなって、ちょっと寒い日が続いたので、ここのところこんな格好でいます。
ひめちゃんは、もっとおばあちゃんになってからね(^-^)/

寒いけれども、春の足音は聞こえています。
霜げないで、こんなにきれいに咲いてくれました。

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『桐生老談記』、新しい章です。

松嶋式部沼田行きの事、付けたり、久留川城静まる事

去る程に、松嶋式部少輔此の事を、真田弾正方へ早速に申し談ぜん為、同六日に発足して沼田にへ帰着して、先年の例を以て桐生の旗下になるべき由、理(ことわり)を尽くして申し渡しければ、真田答えていう。去る永禄九年(丙寅、1566)に桐生城主当家にかしづきしより、この方今新田の支配たりというとも、桐生の武役は今当家に勤め来たり。去るによって、向後各々桐生の旗下というとも、なんぞ当家に別心あるべからず。ねんごろに申されけるによって、式部は暇乞い久留川に帰り、上下喜悦の思いをなし、子孫繁栄したり。



あらすじです。
(黒川衆は人質をだして新田に和睦しました。)
松嶋式部少輔は、沼田の真田弾正へ、さっそくそのことを報告にいきました。
黒川衆は桐生の領主が由良氏になっても今まで通りに桐生の参下でいる理由を説明しました。
真田弾正は、「永禄九年に桐生城主桐生氏が真田の配下になってから、黒川衆はずーっと真田に武役を務めてきた。桐生では新田に従うといっても、真田に逆らうつもりなどあるはずがない。」と理解してくれました。
式部はお別れを言って黒川に帰りました。
黒川衆はみんな大喜びで子孫は繁栄したということです。




こんなことは、ありえないでしょう((((;゚Д゚)))))))
黒川衆は、由良と真田、両方に従っていて、真田が理解を示すなんて(;゜0゜)
それに、真田氏の沼田攻略は、天正8年(1580)です。
今は天正6年(1578)10月6日です。
つい先頃まで、黒川衆は上杉謙信後押しのある里見兄弟を支援していたのです。

どうも作者は、武田びいき、真田びいきのところがあります。
なんとかつながろうとして、支離滅裂になっている感あります。

松嶋さんも何人もでてきて、混乱しそうです(´・_・`)

沼田城も訪れたいと計画してはいるのですけど、この時節、もう少ししてからにします(^-^)/


( 松嶋式部沼田行きの事、付けたり、久留川城静まる事 終 )



追伸
これから小俣合戦のことで、また膳さんが登場します(*^_^*)


新田へ早打ちの事、付けたり、和談調う事

寒い寒い朝でした。
ひめちゃんと獅子丸は、北の方にお散歩してきました。
3月なのに、赤城山が真っ白です(°_°)

IMG_0827 (2)

赤城山の一番東の峰には、雲が懸かっていることが多いので、雨や雪が降ることが多いと思われます。
今話題の久留川(黒川谷)は、その峰の麓になります。
どうだったかな?

ひめちゃんたちも遠出はしないで、早めに帰りました(^-^)/



『桐生老談記』 新しい章です。

新田へ早打ちの事、付けたり、和談調う事
さるほどに、漸く合戦止みければ、同巳ノ下刻(午前11時)に松嶋弥太郎参着して、和睦の趣通じければ、藤生・金谷伺い状をしたため、江原余右衛門を以て、午ノ上刻(正午)に新田へ早打ちを飛ばしける。同酉の下刻(午後7時)ばかりに、早打ち陣所に帰り、御返状のいう、久留川和睦においては子細これなく、三十日替わりに人質を渡すべきと相極め、その地退陣せしむべしとの上意にて、則ち松嶋与四郎・高草木内蔵之助両人を人質相定め、それより誓詞相済み、弥太郎は人質にして、両家の大軍引き払いけり。



あらすじ(大意)です。

ようやく合戦が止んだので、巳ノ下刻(午前11時)に、松嶋弥太郎は由良方の陣に到着して、和睦を申し入れた。
由良方の大将の藤生・金谷は、江原余右衛門を使者にして馬を走らせ、新田(金山城)に指示を仰いだ。
至急の使者は、酉の下刻(午後7時)に帰ってきた。
その返事は、「黒川衆との和睦は何も問題はない。人質を出させるように決めて、あとは陣を引かせるように。」という由良国重の指示だった。
そこで、松嶋与四郎・高草木内蔵之助の二人を人質とすることを決め、誓約書を作った。
とりあえず、(松嶋)弥太郎は人質となり、両家の大軍は引き上げた。



松嶋弥太郎は1人で来たのでしょうか?
昨日3人で来た由良方の使者は、結局高草木兵庫たちに殺されてしまいました。
ちょっと危険が伴いますね。
午前8時に始まった戦いは、約3時間で決着がつきました。
由良方は金山城に指示を仰ぎました。
黒川方は、松嶋弥太郎に全権委任だったのでしょうか?

「三十日替わりに人質を渡すべきと相極め」、よく意味が取れません。
いずれにせよ、黒川方から人質を出すことが求められたのです。

「松嶋与四郎・高草木内蔵之助両人を人質相定め」とありますけど、松嶋与四郎は松嶋弥太郎でしょう。
松嶋弥太郎と・高草木内蔵之助が、人質に決まったのです。

そして、松嶋弥太郎は帰らないで、人質として残るのです。

黒川の本城(深沢城)には、誰が連絡に立ったのでしょう?


(  新田へ早打ちの事、付けたり、和談調う事  終 )

奈良坂合戦の事、同止まる事・その 2

夕方、ひめちゃんは小次郎パパと、南の方にお散歩しました。
途中で、ひめちゃんが動かなくなりました。

獅子丸が、タバサねーちゃんとやって来たのです。

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ひめちゃんは、「遊ぼ(*^_^*)」の姿勢で待ってます。

IMG_0808 (2)

みんなで一緒に帰りました(^-^)/




奈良坂合戦の事、同止まる事
続きです。

暫くして高草木の一旗は夕方敵の使者を討ち取り、手合わせの合戦に打ち勝ち、重ねて三百騎ばかり催し、明五ツ時(午前八時)に渡良瀬川の岸まで、逆寄せにこそ寄せにけり。寄せ手の大将藤生・金谷大きに怒り、夕べには使者を討たれ、朝には逆寄せにあう事、かたがた以て味方の油断、大将の軍慮の不足なる所なり。敵河を越させては油断の上のおくれなり。此方より押し渡り、一千余人の軍兵とも一度に川を押し渡り、渡良瀬川を五度も八度も懸けつかいしつ、花火をもちらし寄せ手の両勢、殊に使者を遺恨をはらさんと、新手を入れ替え、追いつまくりつ、いきおもつかずして、三時計り責め立てけり。或いはくんでおちるもあり。川に流れ水におぼれて死するもあり。討ち取り、生け捕り、手負い、死人さんざん乱れあり、さまざまなり。合戦最中なる所に、山中より和睦を乞う由告げ来たり。所に谷々ちり乱したる勢なれば、軍はさらにやまざりけり。敵味方の大将、引太鼓を討って漸く勢を引きまとい、暫くいきをつきけり。


あらすじです。

高草木兵庫の軍は、夕方に由良勢の使者を討ち取り、手合わせの合戦に勝ち、さらに300騎ほど召集して、明五ツ時(午前八時)に渡良瀬川の岸まで、先手を打って打ち寄せてきた。
寄せ手の大将藤生・金谷は大いに怒った。
夕べには使者を討たれ、朝には逆寄せにあうなんて、油断が過ぎる。
渡良瀬川を渡らせたら、とんでもないことだ。
由良勢は一千余人の軍兵とも一度に川を押し渡って戦って激戦し、使者の遺恨をはらさそうと、新手を入れ替えて、ずっと三時ほど責め続けた。
或いは取っ組み合って川に落ちる者あり。
川に流れ水に溺れ死ぬ者もあり。
討ち取られたり、生け捕られたり、けが人や死人がたくさん出た。
合戦の最中に、黒川の本城(深沢城)から、和睦を願うことを告げてきた。
けれども、戦いはなかなかやまなかった。
両陣営とも、大将が引太鼓を打って、やっと戦いがやんだ。




高草木兵庫さん、上からの指示ではなく、勝手に戦ってます((((;゚Д゚)))))))
戦国の戦いのルールから、はずれているのでは?

急に300騎も召集するのは、さぞかしたいへんだった事でしょう。
あの新田義貞だって、生品神社で挙兵した時は150騎でした((((;゚Д゚)))))))

明五ツ時(午前八時)って、ちょっと時間的にゆっくりな気がしますけど。

渡良瀬川で大乱闘になっていたのですね。
奈良坂から渡良瀬川までは、ちょっと距離がありそうです。
でも奈良坂合戦なのです。
作者現地を確認したのかなあ?
もう少し暖かくなったら、現地付近を確認しに行こうかな?

大乱闘の最中に、和睦を願う使者がやって来たのです(*゚Q゚*)

和睦を願う使者が来ることを、両陣営とも知らなかったはずですけど、よく両陣営の大将は引太鼓を打ちました(°_°)
引太鼓で引き上げるのは、戦国の戦いのルールに従っていますね(^-^)/

( 奈良坂合戦の事、同止まる事・その 2   終 )

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